ニキとヨーコ~下町の女将からニキ・ド・サンファルのコレクターへ~ 第7章

黒岩有希著 『ニキとヨーコ 下町の女将からニキ・ド・サンファルのコレクターへ』(NHK出版刊) より、冒頭部分をご紹介します。

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第7章 五〇歳の決意

 

ニキとパリで会って以来、静江はこれまで以上に精力的にニキを紹介する活動を進めた。スペース・ニキでは矢継ぎ早にニキの展覧会を開いたが、知れば知るほどニキの世界は奥深い。ニキ作品を多くの人に知ってもらうには、もっと大きな会場での展覧会が必要だと改めて思った。

静江は、日々進行している作業の内容を、手紙でニキへ事細かに報告した。ポンピドゥ・センターやドイツのシュプレンゲル美術館のカタログの翻訳、映画『ダディ』のセリフの日英仏語パンフレットの作成、一九六六年の《ホーン》の制作記録の翻訳。日本の新聞やタウン誌に掲載されたニキ関連の記事は、翻訳してニキに送った。

静江は、溢れる思いとプランをニキへの手紙にしたためた。「あなたを日本にお招きしたい。そのために現在頑張っています」「あなたを知れば知るほど、あなたのようなすばらしい女性がこの地球に生きていることを、多くの女性に知らせたくなる」「日本の人々にあなたのことを知らせるには、あなたがあなた自身のこと、あなたの人生、愛と芸術について、考えを本に書くのが一番だと考えます。興味がありましたら、日本でそれを出版することはできます」等々。

しかし、ニキへの申し出はどれもすぐに叶うことはなかった。ニキは多忙だった。フランス、イタリア、スイスなど、いろいろな場所で作品制作のプロジェクトが進行している。加えて、若い頃マスクなしで素材を加工していたため粉塵を吸い込み続け、そのせいで肺を悪くしていた。絵手紙をくれはしたが、ニキはまだまだ静江とは出会ったばかり。自分の作品の大ファンだという遠い極東の女性に、そこまで協力する時間も義理もなかったのだろう。

 

それでも、静江は静江なりに考えを巡らせていた。

「ニキはあの時、自分を〝愚者〟に例えていた。私も同じだ。この世に生まれ、自分は何者か、ずっと探し求めてきた。ニキの作品にここまで魅了されるのは、その答えが彼女の作品から得られるからではないか。ニキの作品が私を導いてくれる」

「ニキは私だ。ニキ作品の世界は、彼女の自分史であるとともに、私自身の、女たち自身の自分史でもある」

「そうだ。いつか私はニキの美術館をつくろう。たくさんの人にニキとその作品を知ってもらおう。

そして、多くの女性たちが自分を語り合える場、元気になれる場所をつくろう」

静江はそう決心した。静江が五〇歳の時であった。

(続く)