灰とダイヤモンドから残像まで

今年の夏、昨年90歳で亡くなったアンジェイ・ワイダ監督の映画「残像」(2016)を見た。この作品は、彼の遺作である。

「人はそれでもなお、己の信念を貫けるのか」というワイダ監督のメッセージが、これでもか、というほど伝わってくる。

粗筋はこうだ。場所は第二次世界大戦後のポーランド。ソヴィエト連邦の影響下におかれたスターリンによる全体主義の中、実在の前衛画家ストゥシェミンスキが、芸術を政治に利用しようとするポーランド政府に選択を迫られる。彼は表現の自由を守るために、政府に反発する。このため彼は人としての尊厳を踏みにじられ、追い詰められていく――。

映画を見終わって深く考えさせられた。

権力によって人の自由が奪われていく恐ろしさ、それは何も芸術家だけではない。普通の人々にとっても同じことが言える。右に倣えで、その意に沿わないものは排除していく。これは、世界のいたるところで見られる光景ではないか。

また自分の信念を貫くことは大きな犠牲も伴う。

映画の主人公であるストゥシェミンスキの家族に対する態度は実に非人情的としかいいようがない。

映画は不屈の精神を持った人間が家族を大切にする家庭人だとは言えない、とも言うのだ。

あえてそんな不完全な、人間臭い部分を執拗に描きながら、なお、信念を貫いていく意味を問いかける。

ヨーコさんがワイダ監督の初期の作品「灰とダイヤモンド」(1958年)について1960年に書いた文章が残っている。この映画もやはり政治に翻弄され、虫けらのように死んでいく人間(若者)が描かれている

「この映画を観たとき、私は猛烈に腹が立った。冗談じゃない。

これが人ごとであろうか。よその世界のことだろうか。そう思ってみていられるだろうか。これは私自身のことなのだ――」と。そして主人公の若者が自分がどう生きていくかとの問いに心底揺すぶられたとき、呆気なく死んでしまう。何故だ。無駄死にではないか。

言うなれば信念を持たないで生きることは、存在していないことと同じなのだ、とヨーコさんは言いたいのだ。

初期のものから晩年に至るまでワイダ作品のメッセージは一貫している。

若かりし頃のヨーコさんはこの人の作品に影響を受け、半世紀たった今、私たちに影響を与える。

素晴らしい映画監督がまた一人この世を去った。残念に思う私は、今とても寂しい。

 

 

 

 

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次回の「ヨーコのエピソード」は11月に掲載します。お楽しみに。