水芭蕉の画家

日本画家、佐藤多持(1919年~2004年)は戦後、尾瀬で見た水芭蕉に感動してそれ以来、水芭蕉を描き続けた。

それは、具象から形象、抽象、そして心象へと移行する。そして代表作である「水芭蕉曼陀羅」を生み出していった。

今年の春、佐藤多持生誕100年を記念した企画展が氏にゆかりのある国立、立川のギャラリー、青梅市美術館など6か所で同時開催されていた。

 

佐藤多持氏の奥様である美喜子さんは津田でヨーコさんの先輩であった。

美喜子さんとヨーコさんは色々な学生が集まってこれからの社会を勉強する社会科学研究会で出会った。それから長いお付き合いが始まった。

国立にあった佐藤氏のアトリエで通二さんとヨーコさんがデッサン会に通ったエピソードは著書「ニキとヨーコ」にも書かせてもらった。

 

先日、展覧会にお伺いして美喜子さんにお話を伺った。

美喜子さんは佐藤氏より10歳若い1929年生まれ、ヨーコさんは1931年生まれである。50号ほどの闇のような黒の中に浮かび上がる大胆な墨の線、はっとするような水芭蕉の白とぼんやり浮かび上がる金の花弁の描かれた絵を見ながら私が、「戦後、尾瀬で水芭蕉を見たことがこの絵につながったんですね」と聞くと、美喜子さんは「そうね」と一呼吸置かれて静かに話し出された。

 

「私と佐藤は10歳年が違うんですよ。あの頃、10歳違うと考え方もぜんぜん違うのよ。ほら、私やヨーコさんが小さかったころ、「ススメ ススメ ヘイタイススメ」って習ったでしょ。もう社会全体がね、戦争に突入するという空気だったんですよ。それが佐藤(大正8年生まれ)の小さい頃はまだ大正デモクラシーの頃、文化的な活気があって、昭和初期はね、「ハト マメ」なんて習ってたんですよ。

いざ、戦争が始まるとね、私なんかはね、鬱屈していたものが晴れるというのか、

こういうことだったのかと、そんな気がしたものですよ。

最初の頃は日本が勝っただとか、いいこと言ってましたけれどね、そのうち女学生になって動員されて、本なんか読むでしょ、

今まで教育されてきたものが変だなってだんだん思うわけ。だから、戦争が終わって、自分たちはどんなふうに間違っていたのか、と社会科学を勉強するようになったの。これからの社会をどうしていくかと。これが私や、ヨーコさんや通二さんね。でも佐藤たちの年代の人はいい時代を知っているから時代の渦に巻き込まれていったという感じね。」

 

佐藤氏は画学生の頃、徴兵のために繰り上げ卒業となり、入隊した。

けれど、演習のけがが元で病気になり結局、家に戻り、教師となる。

教壇に立つようになった佐藤氏は色紙に身辺の写生をし始める。それは昭和18年1月から始まり、昭和24年6月10日まで146枚にも及ぶ。戦争の進捗状況が刻銘に描かれている。それは、「戦時下の絵日誌~ある美術教師の青春~」

と題し、けやき出版から出された。

何気ない日常が次第に緊迫し、悲惨なものになっていく。その中でも佐藤氏の眼差しは人々の生活をとらえていて温かい。

普通の人々が戦争という渦のなかに巻き込まれていく―――その恐ろしさを感じる。戦後20年たって、佐藤氏はようやくこの日誌の存在を知らせることとなる。それまで、心の傷として重く封印していたそうだ。

佐藤氏はこう言っている「私の心のどこかに、戦争に対するこだわりが消えていません。私の周りの人が何人も戦死しました。全く無駄な命を投げ出したものです。わが青春の嫌な思い出・・それが戦争でしたから、この絵日誌を取り出してみる度に戦争中の哀しみがじわじわと湧いてきます。国家と国家が、一人でも多く殺した方が勝つという、常識を逸脱した行為は、永久に繰り返してほしくないと思います」(戦時下の絵日誌より)

 

戦後、佐藤氏は絵日誌を書くのをやめ、水芭蕉と出会った。

その、無限の宇宙のような漆黒の闇から照らし出されたような、水芭蕉は永遠に命の平和がつづいていく祈りのように私には思えた。

 

 

★佐藤多持氏の展覧会は下記の日程で行われています。

ホームページなどでご確認の上お出かけください。

 

佐藤多持展

 

会場   たましん歴史・美術館

会期   前期展4月2日~5月12日   後期展5月18日~6月30日

 

会場   たましんギャラリー

会期   前期展4月4日~4月29日   後期展5月2日~6月4日

 

 

「水芭蕉曼荼羅 黄62」 / 1981年

紙本墨画彩色 / 178.0×144.0cm

(生誕100年佐藤多持展 カタログより     たましん歴史・美術館 / 1019年)

 

 

佐藤多持・著 「戦時下の絵日記 ―ある美術教師の青春―」

けやき出版 1985年発行