その日、パリ市立近代美術館でのレセプションで、ニキのサイン会が行われることになっていた。
ヨーコさんと私も会場へ出かけた。
ニキは光沢のあるサーモンピンクのジャケットにシルクで作った自身デザインのピンクのスカーフをふわりと首に巻いて入館者の注視のマトだった。私達が会場に入ると待ちかねたように関係者との話を打ち切り足早に近寄って、囁いた。
「ヨーコ、これからサインをするのだけど、私の横に座っていて欲しいのよ」と。
ヨーコさんは「OH―」と驚いた表情で「とっても光栄よ」と返した。
「ありがとう。心強いわ」とニキ。人一倍シャイで繊細なニキは一人でファンにサインするのが苦手だったのだと思う。一方、はるばる日本から駆けつけてくれたヨーコさんを気遣って誘ってくれた配慮の気持ちもあったようだ。いづれにしても、仲良く並んで座る二人の姿が微笑ましかった。
サインする部屋は明るい日差しが差し込んでいて、美術館特有の静けさが辺りを包んでいた。そんな中、サイン会が始まり、特に子供が来るとヨーコさんはニコニコ顔になって、ニキがサインするのを眺めていた。人が途切れると二人の楽しそうなおしゃべりが始まる。
二人の笑い声が館内に響いてこちらまで楽しくなってしまう。
ヨーコさんはサイン会のあと私に「今日の午後、ニキのソワジーにあるアトリエに招待されたわよ」と。ヨーコさんは、その時も興奮した口調だった。
ニキのアトリエはパリの郊外にあった昔からの宿屋を一軒まるごと買って改装したものだった。古めかしい家の周りには樹木が茂り小さな中庭が見える。家の中はよく手が加えられ、洒落れた雰囲気を醸し出していた。真っ白な壁にはニキの作品が飾られ、部屋の各コーナーには、ニキの細工したライトが薄暗くなった部屋を温かみのある光で照らしていた。黒い鉄製のらせん階段が二階に続いており、人が集まる部屋の真ん中にニキが作った大きなガラスのモザイクのテーブルが置かれていた。ここかしこにニキの作品がある。ヨーコさんが「この作品たちを全部写真に撮っておいてね」と私に言った。
私はパチリパチリと写真を撮りながら、じっくりとニキの作品を鑑賞した。カラフルな電球が付いた作品はユーモラスなものが多い。そんな中、一点だけモノクロの作品があった。
「JEAN」と文字が大きく書かれ、ねじ回しを手に持ったジャン・ティンゲリーの顔と車輪が描かれていた。その2年前(1991年)に亡くなったニキの最愛のパートナー、ティンゲリーへのオマージュ作品だった。
また別の場所にヨーコさんが墨で書いた「蛇案鎮化理je an tin gue ly」
の文字が額に入れられ飾られていた。
「snake/ thinking about something/ the sound of metal /deformathion or to be a monster/knowledge」とヨーコさんが自己流に考えた当て字の漢字の意味が添えられていた。
ニキはヨーコさんが即興で書いたこの文字を大変気に入っていたようだ。
ヨーコさんは、この他にも沢山の外国の友人の名前を漢字にして相手ともども楽しんでいたが、どれもセンスがあって面白いものばかりだった。今思っても、ヨーコさんは本当に言葉遊びの達人だったなあと思う。
アトリエで、早速ヨーコさんは、お土産を手渡した。ニキには着物や日本酒を、生まれたばかりの初曾孫のジャマールには、日本のお祭りなどに着る半被もあった。ニキは一つ一つのお土産の包みを開けながら驚きの声を上げていた。
ニキの他にアシスタントのリコやジャニスもいて皆で賑やかな夕食となった。
スパゲティが皿に盛られて出てきのだが、その時私は、生涯忘れられない光景を目にしたのだった。そして心から嬉しくなった。
というのも、スパゲッティが私の作ったお皿に盛られて出てきたのだ。
その頃、私は日本で「緑の王様」というグループ名で、画家の坪内朝子さんと知的障害者の人達が作ったお皿や和紙に絵付けをする仕事をしており、その活動を知ったヨーコさんがニキにそこの作品であるお皿を4枚送ってくれていたのだ。
世界的なアーティストであるニキが私達の作品を日常使いで活用してくれていると知りまさに驚愕。「使っていただいて光栄です」としどろもどろにお礼を言ったのを覚えている。
ニキは「とっても美しいお皿だわ」と言ってくれた。
この言葉は後に私や仲間達に大きな励みになったものだ。
こうして、ニキのアトリエで過ごしたひと時は忘れがたい一夜となった。
50歳までこってこての日本料理屋の世界から突然に別世界に飛び込んだヨーコさんは、初めてニキのアトリエに招かれた時は、顔も上げられず、ろくに返事もできないほどだったそうだ。
確かに、180度違う別世界である。
私にとっても別の窓が開かれた、そんな晩だった。
写真/サイン会場でのヨーコさんとニキ
写真/「緑の王様」のお皿