ヨーコと通二

ヨーコさんと通二さんが夫婦だった、と後になって知ったという人が少なからずいる。

社会学者の上野千鶴子さんもその一人である。

「増田通二」は、パルコの仕掛人であり、渋谷の街を変えた街づくりの戦略プロデューサーである。一方、ニキの作品を通して「ヨーコ増田静江」ことヨーコさんを知っている。それぞれ別々に知り合い、ある時この二人が夫婦と知り驚いた、という。

上野さんは通二の著書「開幕ベルは鳴った」の中で、こんなことを述べられている。「トスカーナの太陽に似合う、生命力のはじけるようなニキのアートを思い浮かべると、増田通二さんが女性を愛し、女性の才能を愛し、クリエイターも消費者も含めて「PARCOの女たち」のよき同伴者となってきたことが分かる」

 

小田原在住の創作家具作家安藤和夫さん、澄子さん夫妻もそうだ。和夫さんは1952年生まれ。70年代、澄子さんの職場は原宿にあった。お二人は、青春時代を過ごした渋谷の変遷をつぶさに見てきた。

原宿、渋谷は元々ひなびた静かないい場所であったが、パルコの開発でどんどん街が変わっていった。「僕たちは、増田通二という人が創った都市計画や夢に物凄く影響を受けた世代だったんです。渋谷に行くとワクワクしたものです。広い意味で渋谷文化に洗礼を受けました」と振り返る。

 

また安藤夫妻は、当時ニキ・ド・サンファルにも大きな影響を受けた、という。もともと彫刻家志望だった和夫さんが出入りするアーティストたちが集まる場所ではニキの事がよく話題に上ったという。

「私たちの時代はまだ女性は結婚して子供を産むことが幸せな一生だと思われていた時代。自分が主体となって何かするという事がなかった。自分探しが長かった。そんな時ニキを知って生き方と作品に魅了されたんです」と澄子さん。

また和夫さんはこうも話して下さった。

「その後にリブがきたんです。ニキはリブという運動体にシフトしていなかった。アートという違うシーンで、もっと過激で、本質的で、新鮮だった」

 

そんな安藤夫妻が上野に「スペースニキ」というギャラリーがあると聞き、かけつけた。生まれたばかりの娘さんに‘ニキ‘と名付けるほどニキファンの安藤夫妻がヨーコさんと意気投合するのに時間はかからなかった。

 

1986年、二か所同時開催のニキ展の打ち上げが、東京のカフェ・ド・ラぺで開かれた時、ご夫妻は集まった人たちに驚いたそうだ。岡本太郎さんと敏子さん、また瀬木真一さんやヨシダヨシエさんら名の知られた人達がずらり。安藤夫妻にはヨーコ増田静江という人がずっと謎の女性だったそうで、実業家であるとは思っていたが、ニキの作品を集めては展覧会を開き、パーティを開けば著名人が顔を集める。ただものではない女性と感じていたが、何年か後、ヨーコさんと通二さんが夫婦と知ってまたまた大変驚いたそうだ。

「ニキを経て増田通二さんまで繋がっていたんです」、

「あの時代はボーダーを超えていこうなど、いろいろな価値観を問い直す時代だった。お二人は大きな存在だった」と夫妻は口をそろえる。

 

ヨーコさんと通二さんの活動は全然別のものに見えて実は根っこのところで繋がっていたのではないだろうか。お互いの道を、もがきながら進み、お互いの存在をライバルとしてみていたのだろう。

そして、相手の言った何気ない言葉にはっとアイディアが浮かんだり、前向きになれたりしたのではないかと思う。二人は五感を研ぎ澄ませ、自分がワクワクするものに忠実に従って、やがて時代の波に乗って躍進した。

 

今、安藤夫妻の娘さんのニキさんは、画家として自身の世界を切り開いている。

同じニキという名前から、ニキさんもニキ・ド・サンファルに影響を受けた一人に違いない。

人と人が心を動かされたものが私たちをつないでいくことに不思議さを感じずにはいられない。