ポニーテールが弾んでいる。
ペパーミントグリーン色のサーキュラースカートをはいたティーンエイジャーの女の子が、ピンクのアメ車の運転席に乗り込む。
続いてやはりカラフルな色の服で着飾った女の子たちが、ばたんばたんと車に乗り込んでいく。車のエンジンがかかると同時にラジオをひねればお気に入りの音楽が流れだす。
女の子たちはわあわあ、きゃあきゃあ、いいながら夜のドライブへと繰り出していく――。
流れる景色。何とも言えない開放感。何かがこれから起こりそうな予感。
女流画家でヨーコさんと親しかった杉田明維子さんからお話を伺いながら、私は中学生の頃に見た、タイトルももう忘れてしまった古いアメリカ映画のワンシーンを思い出した。
1981年、日本料理屋の女将から画廊のオーナーに転身した50歳のヨーコさん。
ニキの美術館を造るためにまずは美術を知らなければならない、との思いから日本で活躍する当時のアーティストの展覧会を’スペースニキ‘で開くようになった。と同時にそのギャラリーはたくさんの画家や文化人が集まるサロンのような存在になっていく。明維子さんによれば、そのころからヨーコさん自身、どんどん変化していったという。着ているもの、始めはたっぷりと袖の膨らんだ長ズボンのパンタロンスーツが多かったそうだ。それが自分の着たい服、アクセサリーを身に着けるようになった。
そして画廊が終わると当時、新高円で明維子さんが営んでいたコーヒーとお酒の店「DON」で閉店までおしゃべりに花を咲かせ、その後は決まって「ねえ、いまから六本木に行きましょうよ」となったらしい。
その日はヨーコさんと数人の女流画家がいつものようにDONで飲んでいた。盛り上がったおしゃべりの最中、突然ヨーコさんが「Tさんのアトリエに行きましょうよ」と言った。
Tさんはスペースニキによく顔を出していた画家で武蔵村山市に住んでいた。ダンディな人だった、という。
時刻は午前零時時をとっくに回っていた。
「えっ今から?」とみんなが驚いても「いいじゃない、行きましょうよ」と茶目っ気たっぷり。車に乗り込んだ女たちはしゃいでいた。
当時は携帯電話もない。Tさんのアトリエに、と言っても彼がそこにいる保証もないのに。
車は女たちを乗せて真夜中の東京を一気に駆け抜けた。
その後の顛末について明維子さんは、はっきりとは思い出せないという。確か、アトリエにはTさんが居て、驚いていたそうだ。
想像すると吹き出しそうになる。きっとTさんは目を白黒させていたに違いない。
こんな夜更けに大勢の女性が何しに来たのかと。
ヨーコさんにとってギャラリーを始めてからがまさに青春だったのだ。
学校を卒業するとすぐ駆け落ち結婚。子育てに追われながらの仕事。
周りは気難しい板前や取引関係者。商売・商売・商売の日々。
気が付けば50歳になっていた。
ニキに出会って解放され、集まってきた自由な考えを持つ画家や文化人との交流。
‘こうせねばならない’といった世間一般の枠組みから解き放たれ、本来ヨーコさんが持っていた失敗を恐れない、やりたいことをやる好奇心旺盛な姿を取り戻したのだ。
仕事になると厳しかった半面、少女のようにはしゃぐヨーコさんは実に可愛らしく、細やかな気遣いのできる女性だった、と明維子さんは懐かしんでくださった。
あのアメリカ映画のワンシーンは、まだ子供だった私の胸に、憧れの青春とはきっとこういうものだとインプットされた。
そして、明維子さんからこの話を聞いた時、ヨーコさんの笑顔とともに鮮やかに私の目の前に蘇ったのである。
写真/スペースニキにて(右から2番目が杉田明維子さん、3番目がヨーコさん)