ひぐらしの声

まだ夏の始めだというのに。

霧がかかるニキ美術館の建つ雑木林に足を踏み入れると、辺り一面ひぐらしの声に包まれていた。カナカナと鳴くその声は、まるで樹々に銀色の細かいシャワーを降らせているようで、辺りをしっとりと濡らしていた。ひぐらしはこの雑木林に何匹いるのだろうか。命が尽きていくような儚げな声は、見えない壁に反響するかのように響き渡っていた。

 

私が生まれ育った名古屋ではこの頃、ようやく地上に顔を出した油蝉がありったけの生命力で鳴き始める。近くの公園の樹々にはびっしりとセミの抜け殻がくっ付いている。もともと暑い名古屋だが、耐えがたいほどのその鳴き声を聞くと、ああ夏が来たのだという気になる。

生き物のエネルギーが否が応でも迫ってくる。ひぐらしが鳴くのは夏の終わりのほんの一時期だ。

 

その夏、那須にはそれらの生き物のエネルギーがまったく感じられなかった。

夏の始まりが夏の終わりだとでも言うように。

それだけで、私は何か心細さを感じ、こころの隅に漠然と不安を感じていたのだった。

東京を離れ家族で那須に移住したのは1997年の夏のことだ。

前年ヨーコさんが脳梗塞で倒れ、幸い大事には至らなかったがリハビリなどで那須での暮らしがままならなくなったからだ。

ヨーコさんは東京で養生に専念、私たちが美術館を手伝うことにしたのだった。

とは言っても手伝うのは夫。手のかかる幼い子供がいた私はそんな気持ちはなかったのだけれど。

しかし、自然がいっぱいの場所でのびのびと子育てしたいという思いもあったから那須行きは賛成だった。

那須に行く前、ヨーコさんが東京で送別会を開いてくれた。

カニ鍋をつつきながら、「那須での抱負は?」とヨーコさんが私たち夫婦に聞いた。夫は「精一杯美術館の仕事を」と言ったように思う。

ヨーコさんの視線を感じた私。ヨーコさんは多分私にも夫と同じことを言って欲しいのではないかな、と思ったが私は「畑仕事と子育てをやります」と返事をしたのだった。

ヨーコさんは以前、私に美術館を手伝って欲しいと言ったことがあった。

私は「美術館で仕事をするとしたらどんな心構えが必要なのですか?」とヨーコさんに聞いた。

すると「そうね、もうそれは戦場よ。子供の世話も何もないわ」という答えだった。それはできない、と私は即座に思った。私は子育てを第一に優先したいと思っていたからだ。それに私自身も創作活動をしていたということも理由の一つだった。

美術館で働くにはそれ相当の覚悟を決めて頂戴。ヨーコさんにそう言われているような気がした。

今考えればヨーコさんは自分が私と同じ年の頃、働くという事をそんな風にとらえていた、そこまで過酷な状況だったとわかる。

けれどもその時、ヨーコさんのライフワークの表面的なことしかみていなかった私は生真面目にもヨーコさんと同じことは出来ないと反発までとはいかないが思ってしまったのだった。

 

2007年、「私が館長を引き継ぎます」とヨーコさんに告げた時、ヨーコさんは驚き、そしてとても嬉しそうな顔をした。もっとも、状況はただならぬ方向に進みつつあった。

ヨーコさんの健康問題、美術館の財政状況など取り巻く環境は大きく変化しようとしていた。

「変に意地を張らずに、もっと早くそう言っていればよかった・・」と私は思った。しょせん私には私なりの働き方しかできないのだから。

 

美術館を閉め東京に戻った私は、あの夏の那須を時々思い出している。

あの時、私が感じた漠然とした不安はなんだったのだろう。

植生までもが全く違う土地で馴染んでいけるかとこれからの生活を思ったのか、美術館でニキとヨーコのエネルギ―に向き合っていけるのかという戸惑いだったのか、今もわからない。

今となっては、幻のように霧がかかり、ひぐらしの鳴き声に包まれていた美術館を、ただ懐かしく思うのである。