Sのひと

ヨーコさんには女学生時代仲のいい女友達がいた。一級下の平田重子さんだ。

重子さんは当時、女学生達の間で流行っていた「S」(シスターの略で、特別に親密な間柄になる関係をあらわした)の関係をヨーコさんと結んでいた。

ヨーコさんの伝記を書くとき伺った重子さんによると、「お姉さん(ヨーコさん)には私と付き合う前に一級上に別のSがいたのよ、名前は分からないけど」と話して下さった。

ヨーコさんの人生は、戦後の多感な女学校時代が大きく影響している。その一級上のひとに話を聞きたい思い、当時の交友関係を調べみたが分からなかった。なにせ70年も前の事なのだ。

「謎のSさん」―-私は勝手にそのひとの事をそう呼ぶことにした。

それにしても、当時のSという関係は秘密めいていて、一途な女子学生達にとって、憧れであったと聞く。今のように男女共学なんてなかった時代。

女性が女性に憧れるという事は普通であった。ラブレターも頻繁にやり取りされたようだ。

時代は流れ、私も学生の頃は仲のいい女友達と学校で会っていても、手紙を書いて渡したりしていた。

他愛もない事や今考えるとどうでもいい悩みなどを小さい字でびっしりと書いたのだ。

今読み返せば恥ずかしくなるようなことばかりであろう異性との関係では埋めつくせない、純粋で親密な同性同士の関係は、この頃だけの特有なものだと思う。

 

さて「謎のSさん」に話は戻る。2015年秋、ニキ展が国立新美術館で3か月にわたって開かれた。

その時、会場でヨーコさんを古くから知っている方々が私たち夫婦に声をかけて下さった。

その中の一人に中村佳代子さんが居た。

聞けば、女学生時代の知り合いとの事だった。中村さんには、日を改めて最近お話を伺った。

ヨーコさんより一級上で演劇部で一緒だったという。お話を聞くうちにだんだん確信へと変わっていく。

「中村さんが謎のSさんだったんだ」と思わず声が出てしまった。

「探していたんです」といささか興奮気味の私に、はにかみながら「いえいえ、そんな。私はなにも。随分昔のことで大したお話もできませんよ」と言われる。

小柄で優しそうな目元が笑っている。女学生の頃の中村さんを思い浮かべた。

さぞ、可憐で透明感のある女学生だったであろう。

演劇部に入部したばかりのヨーコさんは憧れたに違いない。

 

とぎれとぎれではあるが、中村さんはヨーコさんとの思い出を辿って下さった。

女学生時代、ヨーコさんがほぼ一人芝居をして、それが大層評判をとったこと、ヨーコさんが作家か政治家の道に進むと思っていたこと。ヨーコさんと通二さんが友人の堤清二氏の家を訪ねると門が閉まっていたため、二人で塀を乗り越えた話、ヨーコさんの結婚式に出たこと。結婚してからお互いの家族同士で所沢にドライブに行ったこと。

そんな中、こんなエピソードも。ヨーコさんが結婚して数年したある時、不意にヨーコさんが「水着を貸してくれない?」と中村さん宅を訪れた。不審に思った中村さんだったが、何も聞かないで水着を渡すと、ヨーコさんは「ちょっと泳いでくるね」とプールに一人で出かけていったという。

「何かいやなことがあったのでしょうね。でも決して人にこぼすような人ではなかった」と懐かしそうに話された。

また、上野の料理屋「花家」の跡地に新ビルを建設中のときのこと。

女学校時代の美術の恩師、田中修先生を囲んで皆で上野で食事をしたあと、奮い立つような緊張した気持ちで恩師や私たちに生まれ変わるビルを案内してくれたヨーコさんが今も目に浮かぶ、と中村さん。新ビルはヨーコさんの大仕事だったのだ。

 

ヨーコさんの人生には周りにいつもいい女友達がいた。

自分の心の内をみせるようなことはなかったが、悲しいときや寂しいとき、そっと寄り添ってくれる、そんな友達を訪ねて、何気ない会話をすることが、ヨーコさんにとって気持ちを切り替える大切な時間だったに違いない。

ヨーコさん亡き後、私は何人かのヨーコさんの友人にお会いしてお話を伺ったが、それぞれ自身の個性と生活をきっちりと持っておられる素敵な方ばかりだった。

 

「人生は出会い」―-。とヨーコさんがよく言っていた言葉である。

ニキに出会って人生ががらりと変わったヨーコさんであるが、一期一会、日々の出会いの大切さを気づかせてくれる言葉でもある。

人生において出会える人の数は限られている。ならば、出会った人たちとの関係を大切に生きなければ、と思う。