圓朝の真景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)

不忍池の西側に「池之端(いけのはた)七軒町(しちけんちょう)」という、知る人ぞ知る場所がある。

ここは明治の落語家三遊亭圓朝の有名な「真景累ヶ淵」という怪談話の舞台になったところである。このお噺、実際にあった話を元に創作したといわれ、噺の中では、根津七軒町になっている。

話は鍼医者で金貸しの皆川宗悦が切り殺されることから始まるおどろおどろしい、血まみれの、怨念、因縁、呪い話であるが、実は以前この七軒町にスペースニキの倉庫が建っていた。

落語好きだったヨーコさんは生前、倉庫にご一緒すると、必ずと言っていいほど「落語の真景累ヶ淵はね、怖いよ~」と真顔で言ったものだった。当時七軒町はすでに昔の面影はなく、たくさんあるお寺の合間に新しい住居が立ち並ぶ住宅地。その昔の古くて暗い家並みを知るヨーコさんにとっては、噺の真景累ヶ淵のおどろおどろしい世界がより身近に感じられたに違いない。本当にいつも幽霊やお化けの存在を怖がっていたヨーコさんだった。今では幽霊やお化けより人間の方が怖い、余裕のない殺伐とした世の中になってしまったが・・・。

 

その七軒町の倉庫の話である。

ヨーコさんが30代の頃、上野の花家で働いていた時期があった。通二さんも池袋・西武デパートの花家で働き、夫婦共働きで給料は3万円。幼い子供二人を抱え、当時4人家族が生活するのに最低4万円は必要だった、という。父荒江は実の娘だからと言って特別な扱いをする人ではない。

しごけばそれだけ伸びると思っていたところもあるだろう。

それだけに、実際の生活は大変だった。

生活を少しでも改善したいと思ったヨーコさんは考えた。

そして思いついたのが当時ほとんど使われていなかった七軒町の倉庫である。

この当時は花家の倉庫だった。

ヨーコさんは荒江に七軒町を好きに使わせてほしいと直談判した。荒江からOKをもらうと、早速、花家にいた大工仕事が得意の職人に安く頼んで、倉庫を5つぐらいの部屋に区切ってもらうと一つ一つに小さなキッチンをつけたのだ。

単身者向けの簡易なアパート経営だった。

仕事の傍らであったが毎日掃除をしに行き、足りないところを補充しながら店子にも目配りするのだった。部屋はあっという間に埋まり、その後も入居者は途絶えることがなかったと聞く。

アパート経営は随分と家計を支えたらしい。いかにして、お金を作り出すのか。今思えば、このアイディアと行動力がヨーコさんの実業家としての原点だったのではないかと思う。

 

その後、七軒町はスペースニキの倉庫となり、今は人手に渡ってしまった。

今、上野に事務所がある。そこに行くとき、問題の七軒町を通りかかる。

私は時々倉庫のあった小道を覗く。

窓が少ない白いのっぺりした建物が残っている。それをみると、私はかび臭い、無雑作に所狭しと荷物が置かれた倉庫の中を思い出す。

それ以前には独身者向けのアパートでにこにこと箒を履くヨーコさんがいたのだろう。

そして、その以前には怖―い「真景累ヶ淵」の死体が運ばれた長屋を想像する。そして思わずぞっとする。

 

ふと、ヨーコさんが耳もとで「怖いよ~」とささやく。それが私を余計に怖がらせる。