ヨーコさんは犬猫の類が大好きだ。
道端に犬や猫がいると必ず「ワンワン」とか「にゃおにゃお」と挨拶をした。声をかけられた方も、友達が来たとばかり尾尻を振り、足許にそばえる。
ヨーコさんの父で料理人だった荒江さんも無類の動物好きで、自宅にはシェパード、秋田犬、土佐犬の三匹の大型犬‘御三家’が居り、スタンダードプードル、小型犬の座敷犬としてテリヤ、この他に猫数匹と小鳥たち、カナリヤ、目白、九官鳥、鶯などを飼っていたらしい。
小鳥たちに生餌としての蜘蛛や蠅を捕まえるのが小学生だったヨーコさんの日課だったそうだ。
荒江さん、ヨーコさんと続いた動物好きの遺伝子は、ヨーコさんの息子つまり私の夫にも受け継がれている。
ヨーコさんが、夫宛に書いた手紙が何通も残っている。その中に彼の動物にまつわる思い出話を綴った一通があるので、ご披露しましょう――。
「(前略)–交通事故で、下半身が血まみれで骨も砕けたような猫を拾ってきて「飼ってやって、助けてやって!」とせがんだ時の事を覚えていますか?
私が「この猫はもう助からないから飼ってやれない」と宣言したらあなたはわんわん泣いて、ひしと抱きしめたまま、雨の降る寒いベランダに長いこと座っていましたよね。大抵の場合、私は犬猫病院に連れていくのですが、この時は一目見てもう駄目だと思うほど絶望的だったのです。
泥と血でよごれてボロ切れのようになったその若い猫にさわるのは誰でも勇気の要ることでした。でもあなたの勇気は認めたものの、四才児に絶望を宣言するのは残酷なことでした。やがて、夕方も暗くなってからベランダのあなたはその猫が腕の中で冷たくなってゆくのを見、生まれて始めて絶望に直面したのでした。それまでかすかでも暖かかったボロ切れのような哀れな猫が冷たくなり、時に小さな赤い口をあけて声もなくニャーとないていた体が硬直して動かなくなってもあなたは放そうとしないで外が真っ暗になるまで、涙をポロポロと流し続けていましたよね。そのあなたの幼い後姿は冒しがたい威厳のようなものがあり、その上に気の毒で私は声もかけられなかったけれども、ほんとうに辛い思いを味わいつづけていたことを覚えています。私達は庭に穴を掘って、猫のお墓を作るしかなかったのでしたが、それは、あなたが、全てを悟り、猫を手放すことを承知したからでした。
あなたは本当に猫好きだったのですね。その後も子猫を良く拾ってきました。
多い時には5匹にもなりましたよね。
その度に名前を付けるのですが私は「雅志が連れてきたのだから自分で付けなさい」と云いました。「どんなのがいいの?」「自分の好きなものでいいよ」と云うと「うなどん!」と叫び、それは猫の名前としておかしいと言っても、それがいいと言い張ります。
それでうちには「うな丼」「玉丼」「お萩」「のり巻き」や「ノイローゼ」などというヘンな名前の猫たちがニャゴニャゴいたのでした。その内の一つが赤ん坊を産む時に押し入れの中に場所を作ってやったにもかかわらず、猫が一番安心できる好きな場所、つまりあなたの布団の中で夜中に五匹産んだのでしたが、あなたの寝返りで二匹の赤ん坊はおせんべいのようにぺったんこになって、朝の我々を慌てさせたのも可哀想なようなおかしいようなことでした。
私達はその頃桜台の二階の三畳間に布団を並べて寝ていたのでしたが、「お母さん、お母さん猫がぼくの布団の中で仔産んじゃったよお」という叫び声で起きて見ると、それでもつぶされているもののほかに3ツの目もあいていない小さな毛のカタマリがニョゴニョゴと動いていて、親猫は自慢そうになめてやっていたりしました。あなたの5才のころの話です――」
とてもいい話である。
わが夫にもこのような可愛い時代があったのだ。
さて、どうしてヨーコさんがこんな手紙を書いたのか、手紙の最後には、那須の地で自分の手に負える程度の小型犬と猫を飼いたいと結ばれている。私たち夫婦に、それとなく自分の意思を伝えたかったのだろう。
ヨーコさんは私たちの返事を待たず柴犬を飼うことにした。
「華(はな)」と名付けられたその犬は那須にあった犬のしつけを訓練する学校にお世話になりながら大きくなり、ヨーコさんが那須に滞在する時の話し相手になった。
ヨーコさんは華を大層可愛がり、華のための専用のドッグランを館長宿舎の前の雑木林を切り開いて作った。それに華の自画像オブジェや華のキーホルダーが美術館のグッズコーナーに並んだのである。