黒岩有希著 『ニキとヨーコ 下町の女将からニキ・ド・サンファルのコレクターへ』(NHK出版刊) より、冒頭部分をご紹介します。
*** *****
第5章 女将さん時代
一九六四年三月二一日、この日は静江の誕生日だった。
朝早くから鏡に向かい、髪を整えた。普段は化粧などしない静江だったが、この時だけは違った。きりっと眉を引き、紅を差した。黒留袖に着替え、きつねの襟巻をして、車で上野に向かった。
「お父さん、起きてる?」
静江は声を掛けた。
「おう、起きてるよ」
奥から声がした。部屋に上がっていくと、父は新聞を読んでいた。静江は父の前に正座した。
「お父さん。今日で私は、お母さんが亡くなった年になりました。三三歳です。以後よろしく」
父は新聞から目を離さずに「おうおう、そうかい」と言った。一息置いてから、静江は語気を強めて言った。
「ですから、今日からは私の言うことは何でも、お母さんが言わせていると思ってください。あなたの女房の意見として聞いてください」
父は新聞から顔を上げて「ええっ!」と声を上げた。
「お前が女房なんて、誰がそんなこと思えるか」
父は、そこで初めて静江の黒留袖姿に気がついて目を丸くした。そして、体をのけぞらせて大笑い。静江はにっこり笑うと「ほら、お母さんの形見のきつねの襟巻きしてきたのよ。では、今日はこれで」と立ち上がり、部屋を出た。
荒江は言葉を失い、ぽかんとした面持ちで見送るしかなかった。
(続く)