ヨーコさんは一時期、油絵を描いていた。その時期は1981年から1984年のほんの短い間だった。病気療養もあって自由な時間が取れたのが理由の一つだ。
幼いころから、美術の世界は遠いあちら側の事と思っていたが、ニキ作品の自由さと出会い自分でも描きたくなってしまったらしい。
わずか4年足らずだが、大きいものでは130号ぐらいまで挑戦している。
友人たちの人物像、果物などの静物画、富士山、裸婦、そしてニキ作品へのオマージュなど興味の対象は幅広い。
1982年作「自画像」と題された一つの絵がある。自画像はこの一点だけ。
実にユニークだ。
黒く塗りつぶされたおかっぱ頭。そして紺色で描かれた目や鼻や口、眼鏡は極端に省略されている。一筆書きのようにシンプルだ。表情はまるで読み取れない。口をぎゅっと閉じている。
それに反して洋服は、鮮やかな赤。そして背景の赤橙。まるでヨーコさんの内なる情熱がめらめらと燃えているようだ。
このころのヨーコさんはニキの美術館づくりの夢を考え始めていた。
昔から大事なことは自分だけの胸に秘めて黙々とゴールを目指すヨーコさん。自画像そのものだった。
ところがこの美術館の件に関して、大きな失敗をしたと、あとで打ち明けている。
それは、ニキ作品に夢中になるあまり、出会う人出会う人に「ニキの美術館を造りたい」と、自分の夢をしゃべってしまった。
普段のヨーコさんを知る人にはまず考えられないことだ。恋する乙女のように夢に浮かれていたのだなあと想像する。(そこがまたヨーコさんの魅力でもあるのだが――)
しばらくして海外に出かけ、とあるギャラリーのオーナーにニキの作品を売ってほしいと交渉した時のことだった。オーナーの売値は高額過ぎてとても買える値段ではない。
「なんでも、日本の大金持ちがニキの美術館を造るって話だよ。だからニキの作品は今凄く値が上がっているんだ」と。
オーナーはヨーコさんがその張本人だとは夢にも思っていない。
ヨーコさんは唖然とした。噂はこんなところまで広がっていたのだ。
「自分にあるのはお金じゃなくて情熱だけだわ。宝物を手に入れるためには、決して時期が来るまで誰にもしゃべってだめ」と自身に言い聞かせた。
それ以後、美術館構想について本格的にプロジェクトが立ち上がるまで、ニキや娘のローラ、ヨーコの近しい人以外に話すことはなかった。
自画像を描いて12年後の1994年、ヨーコさんの情熱が夢から本物の美術館として実を結ぶことになる。
短い期間しか絵を描けなかったのは仕事が忙しくなってしまったから。
ヨーコさんの部屋にはイーゼルがいつも立ててあって、「また、絵を描きたいな」と私によく言っていた。
彼女の人生、最期までその思いが叶うことはなかったのが残念でならない。
たくさんの友人たちを描いたように私自身も描いてほしかった。
Yoko増田静江「自画像」 1982年